生命体は、人間にとってまだ何か外的なものである。外界からの刺激に対して、感覚の最初の兆しと共に人間の内部が反応する。外界と呼ぶ世界を遥か彼方まで探し回ったとしても、そこに感覚というものを見つけることはできない。光線が眼球に届くと、それは目の内部で網膜まで伝達され、そこで科学的な事象(いわゆる視紅)を引き起こす。この刺激は視神経を通して脳にまで作用し、そこでまた別の物質的経過が生じる。もしこの経過を観察できたとしたら、外界の別の場所でも同じような物質的経過を観ることが出来るだろう。生命体を観察すると、物質的な脳内経過とは同時に「生命経過」でもあることが理解できる。しかし、例えば光線を受け取る者が保持している青色の「知覚(Empfindung)」は、同様の手段で感知することは決して出来ない。その知覚は、刺激を受け取る者の精神内部で初めて生じる。もしこの受け取り手が肉体と生命体だけから創られていたならば、そこに知覚は存在していないであろう。知覚を現実化する働きは、生命を形成する力とは本質的に区別される。ある内的経験は、知覚を現実化する働きを通して生命形成力から誘発される。この働きが無ければ、植物に見られるような単なる生命経過だけが存在することになる。あらゆる方面から印象を受け取る人間を考えてみよう。彼はあらゆる方向に対して印象を受け取るのと同時に、知覚活動の源泉にもなっている、と考えられる。あらゆる方向に対して感覚が印象に応えている。この感覚活動の源は「感覚精神(Empfindungsseele)」と呼ばれる。この感覚精神は、身体と同様に現実的なものだ。ある人間が私の前に立った時に、彼を単なる物質的存在として考え、その感覚精神を考慮しなかったとしたら、それはまさに油彩画を単なるカンヴァスと見なすことと同じである。
感覚精神に関しても、生命体において述べたことが同様に語らなければならない。身体的器官は感覚精神を「見られない」。そして生命を生命として認識できる器官もまた同様である。しかし生命を認識する器官を通して生命体を感知することができるように、さらに高度な器官によって、感覚の内的世界は通常感覚を超えた知覚にとっての特別な本性となる。そして人は、物質と生命の印象だけなく、感覚をも「感知」する。このような器官を持つ人にとって、他者の感覚は他の外的現実と同様に存在している。留意すべき点として「自分の内部における感覚世界の体験」と「他者の感覚世界を感知する体験」は区別しなければならない。自分自身の感覚世界に関しては、もちろん誰でも覗き見ることができる。他者の感覚世界は「観る者」だけが、開かれた「霊性の視覚」を用いて感知することができる。そうで無い者は感覚世界において、自分の精神に固有の「内的な」隠された経験しか得られない。開かれた「霊性の視覚」を用いることにより、通常は他者の「内側にのみ」存在するものが、外なる霊性景色の前で輝きを放つのである。
誤解を避けるためにここではっきり明言しておく。「観る者」は、他者が感覚世界で得る固有の体験内容を、全く同様に体験するのではない。その他者は自身の内側の視点から感覚を体験する。観る者は感覚世界が開示したもの、その表現を認識する。
感覚精神は、その働きに関して生命体に依存している。なぜなら感覚精神が感覚として閃かせるべきものは、生命体から取り出してくるから。そして生命体は身体の内側に生きているから、感覚精神もまた身体に間接的に依存している、ということになる。健全に機能している目だけが、それに相当した色の知覚を実現する。このような仕方で身体は感覚精神に働きかける。感覚精神は、身体によってその効力を決定・制限され、身体によって定められた境界の内側で活動するのだ。
従って「身体」とは、鉱物的素材から創られ、生命体によって命を与えられ、そして感覚精神を制限するもの、と言える。上述した、感覚精神を感知する器官を持つ人もまた、感覚精神が身体によって制限されていることを認識している。
しかし感覚精神の境界は、物質的な身体の境界と重なり合ってはいない。感覚精神は肉体を超えてそびえ立っている。このことから感覚精神は肉体よりも大きな勢力範囲を有することがわかる。しかしその境界を定める力は物質的身体に由来している。これに伴って、一方では身体と生命体、他方では感覚精神、この両者のあいだに人間本性の特別な構成要素が見出される。それは「精神体(Seelenleib)」または「感覚体(Empfindungsleib)」である。次のようにも言えよう。生命体の一部は、他の部分よりも繊細である。そして生命体のこの繊細な部分は「感覚精神」と一種の調和を成している。それに対して、残りの部分は物質的身体と調和している、と。すでに述べたように、感覚精神は精神体を超えてそびえ立っている。ここで感覚と呼ばれているものは、精神的本性の一部分に過ぎない(感覚精神という表現は便宜上選ばれた)。感覚には、快(Lust)と不快(Unlust)の感情、衝動(Triebe)、本能(Instinkte)、情欲(Leidenschaften)が結び付く。これらはすべて感覚と同様の性質を保有しており、身体本性に依存している。
感覚精神は、身体に対してそうであるように、思考・霊性とも相互作用をもつ。まず思考が感覚精神に仕える。人間は自分の感覚についての思考を構築する。このことを通して外界を解明する。火傷をした子供は、熟考した後に「火は燃える」という思考に辿り着く。人は自らの衝動、本能、情欲に盲目的に従うことはしない。彼の熟考は、それを満足させるための適切な機会をつくる。物質文明と呼ばれるものは、徹頭徹尾この観点から展開している。それは思考が感覚精神に対して成し遂げてきた奉仕によって成立してきた。計り知れない量の思考力がこの目的に向けられてきた。船舶、鉄道、電信、電話などはすべて思考の力によって作られた。そしてこれらのほとんどが感覚精神の欲求を満足させるために利用されている。生命を創る力が身体に浸透するのと同じ仕方で、思考の力が感覚精神に浸透している。生命を創る力は、祖先と子孫との関係の上に物質的身体を紡ぎ上げ、このことを通して物質的身体の中へ単なる鉱物が決して持ち得ない法則性を織り込む。同様に思考の力は、精神のなかに感覚精神だけでは持ち得ない法則性を築き上げる。人間は、感覚精神においては動物と同類である。動物にも感覚、衝動、本能、情欲が認められる。しかし動物はこれらに「直接」従っている。直接的な経験を超えた「独立した思考」が織り込まれることはない。未発達の人間についてもある程度までは同様である。このことから単なる感覚精神は、思考の働きを内包した、成長した高次の精神構成要素とは区別される。この思考に制御された精神は「理性精神(Verstandesseele)」と呼べるだろう。あるいは「心情精神(Gemütsseele)」「心情(Gemüt)」とも言える。
理性精神は感覚精神に浸透している。精神を感知する器官を持つ人は、単なる感覚精神とは異なる、特別な本性として理性精神を観る。
人は、思考を通して個々の生活から外へ連れ出される。彼は自分の精神を超えて伸び出る何かを獲得する。思考法則が世界の秩序と一致しているということは、彼にとっては疑う余地の無い事実である。この一致があるからこそ、彼は自分をその世界の住人であると認識できる。この一致は、それを通して自分に関する固有の本性を知るためのひとつの重大な事実だ。人は精神の中で真理(Wahrheit)を探し求める。そしてその真理を通して、精神のみならず世界の事物たちもまた自らについて語るのだ。思考を通して真理として認識されるものは、単に個々の精神だけでなく、世界の事物とも関連する「独立した価値」を有している。星空を見上げた時の私の歓喜は、私のなかに生きている。私が築き上げた星々の軌道に関する思考内容は、全ての他者の思考にとっても同じ価値を持つ。もし私が存在していないのだとしたら、私の歓喜について語ることは無意味である。しかし私が思考したものについて、私と関連付けずに語ることは「同じように無意味ではない」。なぜなら私が今日考えた真理は、もし私がそれについて今日だけしか取り組まなかったとしても、昨日も真であったし明日も真であろうから。ある認識が私を喜ばせるとき、その喜びは私のなか生きている間だけ価値を持つ。だが認識によって得た真理はこの喜びに依存しない。それは完全に独立した価値を持っているのだ。真理を把握する時、精神は価値を内包する何かと結びつく。そしてその価値は、それが精神的感覚と共に生じたのではないように、精神的感覚と共に消滅もしない。実際に、真理であるものは生まれもしなければ滅ぶこともない。それは決して滅することのない価値を有している。
人それぞれの「個々の真実」が一時的な価値しか持たず、ある特定の時期を過ぎると部分的または完全に誤りとして判断される、ということは上述した事実と矛盾しない。なぜならその思考内容が、永遠の真理を映す束の間の姿でしかなかったとしても、真理はそれ自身に根拠をもって存在する、と主張しなければならないからだ。ゴットホルト・エフライム・レッシングのように、完全で純粋な真理は神だけが持ち得るものだから、人は真理への永遠の努力だけで満足すべき、という主張する人もまた、真理の永遠なる価値を否定するのではなく、まさにそのような発言によってその価値を確認しているのだ。なぜなら、自らの内に永遠の価値を持っているものだけが、自分に対して永遠の努力を惹起することができるのだから。もし真理が独立して存在していないのであれば、真理はその価値と意味を人間の精神感覚を通して維持している、ということになる。その場合、真理はすべての人間にとっての唯一の目標となることはできない。真理に向かって努力しようとすること、それは真理が独立した存在であると認めていることに他ならない。
そして真について言えることは、「善(Guten)」についても言える。道徳-善は、好みや情欲に支配されるのではなく、それらを支配している場合にのみ独立して存在できる。気に入る・気に入らない・欲求・嫌悪は、人間の個々の精神に属するものだ。責務とは、好悪を超えたところに立つ、時にはそのために命を犠牲にする程に尊いものだ。そして性向や好悪を、強制や服従を伴わずに、認識した責務へ自発的に従わせる程にまで教化すればするほど、人は高みに立つことになる。道徳-善は、真理と同様に自らの内に永遠の価値を保有する。その価値を感覚精神を通して得てはいない。
人間は、独立した真と善を自分の内部で活性化することによって、単なる感覚精神を超越する。永遠なる霊性が感覚精神に差し込んでくる。そこに滅することのない光が生まれる。精神は、この光のなかで生きる限り永遠性に関与し、それらに自らの存在を結び付ける。精神が、真・善として自ら担うものは「不滅」である。精神において永遠なる部分として閃くものを、ここでは「意識精神(Bewusstseinsseele)」と呼ぶことにする。
「意識(Bewußtsein)」に関して、より低次の精神活動についても語ることができる。どんな日常的な感覚でも意識の対象である。この点では動物も意識を有していると言える。人間意識の核心とはすなわち「精神の中の精神」、ここでは「意識精神」と呼ばれているものである。意識精神は、殊更に特別な精神の構成要素として理性精神と区別される。理性精神はまだ感覚・衝動・激情等に巻き込まれている。初めは誰でも、自分の感覚等から取り出してきたものが真である、と考える。だがそのような感覚や共感・反感その他の不純物「全て」から切り離されたものこそが永久不変の真理なのだ。真理は、たとえ全ての個人的感情がそれに逆らったとしても真理である。精神の中でも「この」真理が生きている部分が意識精神と呼ばれる。
このように、身体と同様に精神もまた三つの部分に分けられる。すなわち「感覚精神・理性精神・意識精神」である。下方から上に向かって、身体が精神を「制限するように」作用し、上方から下に向かって、霊性が精神を「拡大するように」作用する。そして精神が真と善に満たされれば満たされるほど、精神の中で永遠性が遠く広く拡張していく。精神を感知出来る者にとって、永遠性が拡大している人間が放っている輝きは、視覚にとっての燃える炎から放射される光と全く同様に現実的である。「観る者」にとって、人間の肉体は人間全体の一部でしかない。人間を構成するあらゆる要素が相互に浸透し合っているその中心に、人間の最も粗雑な要素として肉体が現れている。生命体は生命形姿として肉体内に満ちている。この肉体と生命体を超えて、あらゆる方向に精神体(アストラル形姿:Astralgestalt)が伸びている。この精神体を超えて感覚精神が、次いで真と善を自らに受け入れれば受け入れるほど拡大する理性精神が続く。この真と善が理性精神に拡大をもたらすが故に、ただひたすら自らの性向・好悪に従って生活する人間が持つ理性精神の境界は、感覚精神のそれと一致している。身体がその中心で雲の中に存在するように見える、身体を取り巻いて見えるこの形象を「人間の霊気(Aura)」と呼ぶことができる。霊気とは、本書で表現しようと試みている方法で感知されたときに、人間の本質が豊かになっていく様を現しているものだ。
Der Lebensleib ist noch etwas dem Menschen Äußerliches. Mit dem ersten Regen der Empfindung antwortet das Innere selbst auf die Reize der Außenwelt. Man mag dasjenige, was man Außenwelt zu nennen berechtigt ist, noch so weit verfolgen: die Empfindung wird man nicht finden können. – Die Lichtstrahlen dringen in das Auge; sie pflanzen sich innerhalb desselben bis zur Netzhaut fort. Da rufen sie chemische Vorgänge (im sogenannten Sehpurpur) hervor; die Wirkung dieser Reize setzt sich durch den Sehnerv bis zum Gehirn fort; dort entstehen weitere physische Vorgänge. Könnte man diese beobachten, so sähe man eben physische Vorgänge wie anderswo in der Außenwelt. Vermag ich den Lebensleib zu beobachten, so werde ich wahrnehmen, wie der physische Gehirnvorgang zugleich ein Lebensvorgang ist. Aber die Empfindung der blauen Farbe, die der Empfänger der Lichtstrahlen hat, kann ich auf diesem Wege nirgends finden. Sie ersteht erst innerhalb der Seele dieses Empfängers. Wäre also das Wesen dieses Empfängers mit dem physischen Körper und dem Ätherleib erschöpft, so könnte die Empfindung nicht da sein. Ganz wesentlich unterscheidet sich die Tätigkeit, durch welche die Empfindung zur Tatsache wird, von dem Wirken der Lebensbildekraft. Ein inneres Erlebnis wird durch jene Tätigkeit aus diesem Wirken hervorgelockt. Ohne diese Tätigkeit wäre ein bloßer Lebensvorgang da, wie man ihn auch an der Pflanze beobachtet. Man stelle sich den Menschen vor, wie er von allen Seiten Eindrücke empfängt. Man muß sich ihn zugleich nach allen Richtungen hin, woher er diese Eindrücke empfängt, als Quell der bezeichneten Tätigkeit denken. Nach allen Seiten hin antworten die Empfindungen auf die Eindrücke. Dieser Tätigkeitsquell soll Empfindungsseele heißen. Diese Empfindungsseele ist ebenso wirklich wie der physische Körper. Wenn ein Mensch vor mir steht und ich sehe von seiner Empfindungsseele ab, indem ich ihn mir bloß als physischen Leib vorstelle, so ist das gerade so, als wenn ich mir von einem Gemälde bloß die Leinwand vorstelle.
Auch in bezug auf die Wahrnehmung der Empfindungsseele muß ähnliches gesagt werden wie vorher im Hinblick auf den Ätherleib. Die leiblichen Organe sind « blind » für sie. Und auch das Organ, von dem das Leben als Leben wahrgenommen werden kann, ist es. Aber so, wie durch dieses Organ der Ätherleib geschaut wird, so kann durch ein noch höheres Organ die innere Welt der Empfindungen zu einer besonderen Art übersinnlicher Wahrnehmungen werden. Der Mensch empfindet dann nicht nur die Eindrücke der physischen und der Lebenswelt, sondern er schaut die Empfindungen. Vor einem Menschen mit einem solchen Organ liegt die Welt der Empfindungen eines andern Wesens wie eine äußere Wirklichkeit da. Man muß unterscheiden zwischen dem Erleben der eigenen Empfindungswelt und dem Anschauen der Empfindungswelt eines andern Wesens. In seine eigene Empfindungswelt hineinschauen kann natürlich jeder Mensch; die Empfindungswelt eines andern Wesens schauen kann nur der Seher mit dem geöffneten « geistigen Auge ». Ohne Seher zu sein, kennt der Mensch die Empfindungswelt nur als « innere », nur als die eigenen verborgenen Erlebnisse seiner Seele; mit dem geöffneten « geistigen Auge » leuchtet vor dem äußeren geistigen Anblick auf, was sonst nur « im Innern » des andern Wesens lebt.
Um Mißverständnissen vorzubeugen, sei hier ausdrücklich gesagt, daß der Seher nicht etwa in sich dasselbe erlebt, was das andere Wesen als seinen Inhalt der Empfindungswelt in sich hat. Dieses erlebt die Empfindungen von dem Gesichtspunkte seines Innern; der Seher nimmt eine Offenbarung, eine Äußerung der Empfindungswelt wahr.
Die Empfindungsseele hängt in bezug auf ihre Wirkung vom Ätherleib ab. Denn aus ihm holt sie ja das hervor, was sie als Empfindung aufglänzen lassen soll. Und da der Ätherleib das Leben innerhalb des physischen Leibes ist, so ist die Empfindungsseele auch von diesem mittelbar abhängig. Nur bei richtig lebendem, wohlgebautem Auge sind entsprechende Farbenempfindungen möglich. Dadurch wirkt die Leiblichkeit auf die Empfindungsseele. Diese ist also durch den Leib in ihrer Wirksamkeit bestimmt und begrenzt. Sie lebt innerhalb der ihr durch die Leiblichkeit gezogenen Grenzen. – Der Leib wird also aus den mineralischen Stoffen auferbaut, durch den Ätherleib belebt, und er begrenzt selbst die Empfindungsseele. Wer also das oben erwähnte Organ zum « Schauen » der Empfindungsseele hat, der erkennt sie durch den Leib begrenzt. – Aber die Grenze der Empfindungsseele fällt nicht mit derjenigen des physischen Körpers zusammen. Diese Seele ragt über den physischen Leib hinaus. Man sieht daraus, daß sie sich mächtiger erweist, als er ist. Aber die Kraft, durch die ihr die Grenze gesetzt ist, geht von dem physischen Leibe aus. Damit stellt sich zwischen den physischen Leib und den Ätherleib einerseits und die Empfindungsseele andererseits noch ein besonderes Glied der menschlichen Wesenheit hin. Es ist der Seelenleib oder Empfindungsleib. Man kann auch sagen: ein Teil des Ätherleibes sei feiner als der übrige, und dieser feinere Teil des Ätherleibes bildet eine Einheit mit der Empfindungsseele, während der gröbere Teil eine Art Einheit mit dem physischen Leib bildet. Doch ragt, wie gesagt, die Empfindungsseele über den Seelenleib hinaus.
Was hier Empfindung genannt wird, ist nur ein Teil des seelischen Wesens. (Der Ausdruck Empfindungsseele wird der Einfachheit halber gewählt.) An die Empfindungen schließen sich die Gefühle der Lust und Unlust, die Triebe, Instinkte, Leidenschaften. All das trägt denselben Charakter des Eigenlebens wie die Empfindungen und ist, wie sie, von der Leiblichkeit abhängig.
Ebenso wie mit dem Leibe tritt die Empfindungsseele auch mit dem Denken, dem Geiste, in Wechselwirkung. Zunächst dient ihr das Denken. Der Mensch bildet sich Gedanken über seine Empfindungen. Dadurch klärt er sich über die Außenwelt auf. Das Kind, das sich verbrannt hat, denkt nach und gelangt zu dem Gedanken: « das Feuer brennt ». Auch seinen Trieben, Instinkten und Leidenschaften folgt der Mensch nicht blindlings; sein Nachdenken führt die Gelegenheit herbei, durch die er sie befriedigen kann. Was man materielle Kultur nennt, bewegt sich durchaus in dieser Richtung. Sie besteht in den Diensten, die das Denken der Empfindungsseele leistet. Unermeßliche Summen von Denkkräften werden auf dieses Ziel gerichtet. Denkkraft ist es, die Schiffe, Eisenbahnen, Telegraphen, Telephone gebaut hat; und alles das dient zum weitaus größten Teil zur Befriedigung von Bedürfnissen der Empfindungsseelen. In ähnlicher Art, wie die Lebensbildekraft den physischen Körper durchdringt, so durchdringt die Denkkraft die Empfindungsseele. Die Lebensbildekraft knüpft den physischen Körper an Vorfahren und Nachkommen und stellt ihn dadurch in eine Gesetzmäßigkeit hinein, die das bloß Mineralische nichts angeht. Ebenso stellt die Denkkraft die Seele in eine Gesetzmäßigkeit hinein, der sie als bloße Empfindungsseele nicht angehört. – Durch die Empfindungsseele ist der Mensch dem Tiere verwandt. Auch beim Tiere bemerken wir das Vorhandensein von Empfindungen, Trieben, Instinkten und Leidenschaften. Aber das Tier folgt diesen unmittelbar. Sie werden bei ihm nicht mit selbständigen, über das unmittelbare Erleben hinausgehenden Gedanken durchwoben. Auch beim unentwickelten Menschen ist das bis zu einem gewissen Grade der Fall. Die bloße Empfindungsseele ist daher verschieden von dem entwickelten höheren Seelengliede, welches das Denken in seinen Dienst stellt. Als Verstandesseele sei diese vom Denken bediente Seele bezeichnet. Man könnte sie auch die Gemütsseele oder das Gemüt nennen.
Die Verstandesseele durchdringt die Empfindungsseele. Wer das Organ zum « Schauen » der Seele hat, sieht daher die Verstandesseele als eine besondere Wesenheit gegenüber der bloßen Empfindungsseele an.
Durch das Denken wird der Mensch über das Eigenleben hinausgeführt. Er erwirbt sich etwas, das über seine Seele hinausreicht. Es ist für ihn eine selbstverständliche Überzeugung, daß die Denkgesetze in Übereinstimmung mit der Weltordnung sind. Er betrachtet sich deshalb als ein Einheimischer in der Welt, weil diese Übereinstimmung besteht. Diese Übereinstimmung ist eine der gewichtigen Tatsachen, durch die der Mensch seine eigene Wesenheit kennen lernt. In seiner Seele sucht der Mensch nach Wahrheit; und durch diese Wahrheit spricht sich nicht allein die Seele, sondern sprechen sich die Dinge der Welt aus. Was durch das Denken als Wahrheit erkannt wird, hat eine selbständige Bedeutung, die sich auf die Dinge der Welt bezieht, nicht bloß auf die eigene Seele. Mit meinem Entzücken über den Sternenhimmel lebe ich in mir; die Gedanken, die ich mir über die Bahnen der Himmelskörper bilde, haben für das Denken jedes anderen dieselbe Bedeutung wie für das meinige. Es wäre sinnlos, von meinem Entzücken zu sprechen, wenn ich selbst nicht vorhanden wäre; aber es ist nicht in derselben Weise sinnlos, von meinen Gedanken auch ohne Beziehung auf mich zu sprechen. Denn die Wahrheit, die ich heute denke, war auch gestern wahr und wird morgen wahr sein, obschon ich mich nur heute mit ihr beschäftige. Macht eine Erkenntnis mir Freude, so ist diese Freude so lange von Bedeutung, als sie in mir lebt; die Wahrheit der Erkenntnis hat ihre Bedeutung ganz unabhängig von dieser Freude. In dem Ergreifen der Wahrheit verbindet sich die Seele mit etwas, das seinen Wert in sich selbst trägt. Und dieser Wert verschwindet nicht mit der Seelenempfindung, ebensowenig wie er mit dieser entstanden ist. Was wirklich Wahrheit ist, das entsteht nicht und vergeht nicht: das hat eine Bedeutung, die nicht vernichtet werden kann. – Dem widerspricht es nicht, daß einzelne menschliche « Wahrheiten » nur einen vorübergehenden Wert haben, weil sie in einer gewissen Zeit als teilweise oder ganze Irrtümer erkannt werden. Denn der Mensch muß sich sagen, daß die Wahrheit doch in sich selbst besteht, wenn auch seine Gedanken nur vergängliche Erscheinungsformen der ewigen Wahrheiten sind. Auch wer – wie Lessing – sagt, er begnüge sich mit dem ewigen Streben nach Wahrheit, da die volle, reine Wahrheit doch nur für einen Gott da sein könne, der leugnet nicht den Ewigkeitswert der Wahrheit, sondern er bestätigt ihn gerade durch solchen Ausspruch. Denn nur, was eine ewige Bedeutung in sich selbst hat, kann ein ewiges Streben nach sich hervorrufen. Wäre die Wahrheit nicht in sich selbständig, erhielte sie ihren Wert und ihre Bedeutung durch die menschliche Seelenempfindung, dann könnte sie nicht ein einiges Ziel für alle Menschen sein. Indem man nach ihr streben will, gesteht man ihr ihre selbständige Wesenheit zu.
Und wie mit dem Wahren, so ist es mit dem wahrhaft Guten. Das Sittlich-Gute ist unabhängig von Neigungen und Leidenschaften, insofern es sich nicht von ihnen gebieten läßt, sondern ihnen gebietet. Gefallen und Mißfallen, Begehren und Verabscheuen gehören der eigenen Seele des Menschen an; die Pflicht steht über Gefallen und Mißfallen. So hoch kann dem Menschen die Pflicht stehen, daß er für sie das Leben opfert. Und der Mensch steht um so höher, je mehr er seine Neigungen, sein Gefallen und Mißfallen dahin veredelt hat, daß sie ohne Zwang, ohne Unterwerfung durch sich selbst der erkannten Pflicht folgen. Das Sittlich-Gute hat ebenso wie die Wahrheit seinen Ewigkeitswert in sich und erhält ihn nicht durch die Empfindungsseele.
Indem der Mensch das selbständige Wahre und Gute in seinem Innern aufleben läßt, erhebt er sich über die bloße Empfindungsseele. Der ewige Geist scheint in diese herein. Ein Licht geht in ihr auf, das unvergänglich ist. Sofern die Seele in diesem Lichte lebt, ist sie eines Ewigen teilhaftig. Sie verbindet mit ihm ihr eigenes Dasein. Was die Seele als Wahres und Gutes in sich trägt, ist unsterblich in ihr. – Das, was in der Seele als Ewiges aufleuchtet, sei hier Bewußtseinsseele genannt. – Von Bewußtsein kann man auch bei den niedrigeren Seelenregungen sprechen. Die alltäglichste Empfindung ist Gegenstand des Bewußtseins. Insofern kommt auch dem Tiere Bewußtsein zu. Der Kern des menschlichen Bewußtseins, also die Seele in der Seele, ist hier mit Bewußtseinsseele gemeint. Die Bewußtseinsseele wird hier noch als ein besonderes Glied der Seele von der Verstandesseele unterschieden. Diese letztere ist noch in die Empfindungen, in die Triebe, Affekte usw. verstrickt. Jeder Mensch weiß, wie ihm zunächst das als wahr gilt, was er in seinen Empfindungen usw. vorzieht. Erst diejenige Wahrheit aber ist die bleibende, die sich losgelöst hat von allem Beigeschmack solcher Sympathien und Antipathien der Empfindungen usw. Die Wahrheit ist wahr, auch wenn sich alle persönlichen Gefühle gegen sie auflehnen. Derjenige Teil der Seele, in dem diese Wahrheit lebt, soll Bewußtseinsseele genannt werden.
So hätte man, wie in dem Leib, auch in der Seele drei Glieder zu unterscheiden: die Empfindungsseele, die Verstandesseele und die Bewußtseinsseele. Und wie von unten herauf die Leiblichkeit auf die Seele begrenzend wirkt, so wirkt von oben herunter die Geistigkeit auf sie erweiternd. Denn je mehr sich die Seele von dem Wahren und Guten erfüllt, desto weiter und umfassender wird das Ewige in ihr. – Für denjenigen, der die Seele zu « schauen » vermag, ist der Glanz, der von dem Menschen ausgeht, weil sein Ewiges sich erweitert, eine eben solche Wirklichkeit, wie für das sinnliche Auge das Licht wirklich ist, das von einer Flamme ausstrahlt. Für den « Sehenden » gilt der leibliche Mensch nur als ein Teil des ganzen Menschen. Der Leib liegt als das gröbste Gebilde inmitten anderer, die ihn und sich selbst gegenseitig durchdringen. Als eine Lebensform erfüllt den physischen Körper der Ätherleib; an allen Seiten über diesen hinausragend erkennt man den Seelenleib (Astralgestalt). Und wieder über diesen hinausragend die Empfindungsseele, dann die Verstandesseele, die um so größer wird, je mehr sie von dem Wahren und Guten in sich aufnimmt. Denn dieses Wahre und Gute bewirkt die Erweiterung der Verstandesseele. Ein Mensch, der lediglich seinen Neigungen, seinem Gefallen und Mißfallen leben würde, hätte eine Verstandesseele, deren Grenzen mit denen seiner Empfindungsseele zusammenfielen. Diese Gebilde, inmitten deren der physische Körper wie in einer Wolke erscheint, kann man die menschliche Aura nennen. Sie ist dasjenige, um das sich das « Wesen des Menschen » bereichert, wenn es in der Art geschaut wird, wie diese Schrift versucht es darzustellen.