幼年期の成長過程において、外界に対して初めて「自分が独立した存在だ」と認識する瞬間がある。繊細な感覚を持つ人にとって、それは重要な経験である。詩人ジャン・パウルは自伝のなかで語っている。

「今まで誰にも話したことが無かった、自意識の誕生に立ち合った瞬間のことを決して忘れない。その場所と時間についても正確に述べることが出来る。幼少時代のある日、昼前に玄関のところに立ち、ふと左側に積んであった薪に目をやった。すると突然「自分は私だ」という内的直観が、まるで空から落ちてきた稲妻のように私の上に閃いた。以来ずっとその事件が鮮烈に心中に残っている。そこで私の自我は初めて、そして永遠に自分を見たのだろう。これについて記憶の錯覚はまず考えられない。なぜなら雲で覆われた、人間の最も神聖なる処で起こった、単なる日常的状況が忘れられない新鮮な出来事に変わったこれと同様の話を、誰からも聞かされたことは無かったからだ。」

周知の通り、幼い子供は自分のことを「カールは良い子だよ」とか「マリーはこれが欲しい」などと言う。彼らがこのように、自分についてまるで他人であるかのように語るのは、彼らの中にまだ自意識が芽生えておらず、その結果自分を独立した存在として意識出来ていないためだ。人間は自意識を通して自らを独立した、あらゆる自分以外のものから隔てられた存在「私(Ich)」と呼ぶ。身体的そして精神的存在として経験したこと全てを「私」において統合する。身体と精神は「私」の担い手であり、「私」はそれらの中で活動する。肉体にとって脳がそうであるように、精神は「私」の中にその中心点を持つ。人間の感覚に外部から刺激が与えられ、外界からの作用として感情が現れる。意志は自らと外界を関連づけ、その結果外なる行為において意志が実現される。「私」は人間存在の実質的本性として完全に隠れている。それ故ジャン・パウルは「私」の発見を「雲に覆われた、人間の最も神聖な処で起こった出来事」と適切に述べた。実際、人間は「私」において完全に孤独である。

そしてこの「私」こそが人間自身なのである。これらのことから、人間はこの「私」を自分の真の本性として考えることが可能になる。このような考察から、身体と精神はその内側で人間が生きるところの「外皮」と見なすことが出来る。それは人間が活動するための身体的条件と定義付けられよう。人は成長過程において、この身体と精神を「私」に仕える道具としてますます有用に使うことを学ぶ。「私」という単語は、例えばドイツ語で使用されるように、自分とその他全てを区別する呼称である。この呼称の本質について適切な仕方で熟考する人には、深い意味での人間存在に関する認識への道が開かれる。「私」以外のすべての呼称は、誰でも同じ仕方でそれに相当する事物に使うことが出来る。すべての「机」は机と呼べるし、すべての「椅子」は椅子と呼べる。「私」という呼称についてはそうはいかない。誰もその呼称を他者への呼び掛けとしては使えない。誰であっても、自分自身に対してのみ「私」と言えるのだ。「私」という呼称が、私自身に対する呼び掛けとして外から私の耳に入ってくることは決して無い。内から、「自分自身を通して」のみ、精神は自らを「私」と呼ぶことが出来る。人間が自分自身に対して「私」と言うことによって、今まで「外皮」と呼んできたものが取り出された世界とは何の関わりも「無い」何かが、彼の中で語り始める。私はますます身体と精神の支配者となる。

このことは霊気にも顕れる。私が身体と精神の支配者として勢力を拡大すればするほど、霊気は分節化され、変化に富み色彩豊かになる。霊気に顕れる「私」の作用を「観る者」は感知することができる。だが「私」そのものは観る者にも見定めることができない。それはまさに「雲に覆われた人間の最も神聖なる処」に存在しているからだ。この「私」は、人間の中で閃く永遠なる光の放射を自身の中に取り込む。身体と精神の経験を「私」において統合するように、真と善の思考を「私」に流し込む。一方から知覚現象が、他方から霊性が「私」に自らを打ち明ける。身体と精神は「私」に仕えるために自らを捧げる。次いで「私」は、その使命を実現するために霊性に自身を捧げる。「私」は肉体と精神の中に生きているが、霊性は「私」の中に生きている。そして「私」の中の霊性に基づくものこそが永遠なのである。「私」は、自らが結び付いているものについての本質と意味を受け取る。人間は、肉体の内で生きている限り物質的法則に、エーテル体を通じては繁殖と成長の法則に、感覚精神と理性精神を通しては精神世界の法則に従っている。霊性を自らの内に受け入れている場合には、霊性の法則に従う。物質・生命の法則が創り上げたものは、生まれては死んでゆく。しかし霊性は誕生や死滅とは何の関係もない。

自我は精神の中で生きている。仮に「私」の最高の表現が意識精神に基づくものだとしても、この「私」はその輝きの放射で精神全体を満たし、その作用を精神を通して身体にも及ぼす。そして自我の中には霊性が生きている。霊性は自我の中で輝きを放つ。自我が「外皮」としての身体・精神の中で生きているように、霊性は「外皮」としての自我の中で生きている。霊性は内から外側に向かって、鉱物界は外から内側に向かって自我を形造る。ひとつの自我を形成し「私」として生きる霊性は、人間の「私」あるいは「自己(Selbst)」として現れるので、「霊我(Geistselbst)」と名付けられるだろう。「霊我」と「意識精神」の違いは、以下の特性を理解することで明確になる。意識精神は、いかなる共感・反感からも影響を受けない、独立して存在している真理に「関わっている」。霊我は「その真理を」自らの内に保有している。しかしその真理は「私」によって取り上げられ、包み込まれているのだ。真理は「私」を通して個別化され、独立した人間本性へと引き継がれる。このようにして永遠の真理が独立し、私と一つに結ばれ、「私」自身が永遠性を獲得する。

霊我は、自我の内部における霊性領域の顕現である。他方で感覚的知覚は、自我の内部における物質世界の顕現だ。人は、赤・緑・明・暗・硬・柔・暖・冷の中に物質世界の顕現を、真と善の中には霊性領域の顕現を認識する。物質の顕現が「感覚(Empfindung)」と呼ばれることと同じ意味で、霊性の顕現は「直観(Intuition)」と名付けられよう。どんなに単純な思考もすでに直観を含んでいる。思考に手で触れることは出来ないし、眼で見ることも出来ない。思考を通じてもたらされる霊性の顕現は、自我によって受け取らなければならないのだ。

未発達の人間と成熟した人間の二人が同じ植物を見たとき、それぞれの自我には全く異なる何かが生じている。しかし二人の感覚は同じ対象から呼び起こされている。その違いは、一方は他方よりも対象についてのより完全な思考内容を作ることが出来た、という点にある。もし対象が感覚を通してしか自らを開示しないならば、霊性的発展はあり得ないだろう。未開人も自然を知覚する。しかし「自然法則」は直観を通して、豊かに高度に発展した人間の思考に対して開示される。子供もまた外界の刺激を行動の動機として知覚する。だが道徳的善の責務は、霊性的な活動の際にその開示を理解し学ぶときにこそ現れる。

眼が無ければ色の感覚が無いように、霊我の高次の思考が無ければ直観も無い。そして、感覚が色を表現している草花を作るのではないように、直観が霊性を創造するのでもない。感覚も直観も、ただ情報を提供するために機能している。

精神のなかで再び活発になった人間の自我は、直観を通して上方からの、霊性領域からの知らせを受け取る。それは感覚を通して物質世界からの知らせを受け取ることと同様である。そしてこのことを通して、自我は霊性領域を自らの精神に固有の活動領域にする。同様のことを、感覚を用いて物質界でも行っている。精神、あるいはその中で閃く自我は、物質と霊性、二つの方向にその扉を開いている。

物質世界はその素材と力から身体を構築し、その中で意識ある精神が活動する。その身体は物質的外界を知覚する感覚器官を備えている。これによって物質世界は、自らに関する情報を自我に与えることが出来るようになる。同様に霊性世界は霊性の素材と力(霊基)を使って霊基躰を創り、その中で自我が生き、そして直観を通して霊性を感知する。(霊性素材、霊基躰という表現が言葉の意味において矛盾を含んでいることは明白である。それらはただ霊性領域において人間の物質的身体に相当するものに関する思考内容を導くために使用されているだけに過ぎない。)

物質界の人間身体が個人毎に分けて構成されているように、霊性領域における霊基躰もそのように創られている。人間にとっての霊性領域は、物質界と同じように「内」と「外」がある。人間は物質環境から素材を受け取りそれを体内で消化するが、同様に霊性環境から霊基を受け取り、それを自分のものにする。霊基は人間の永遠なる養分である。人は物質界で生まれるのと同様に、真と善の永遠の法則を通して霊(Geiste)から生まれる。そして物質界の中で独立した存在として他と完全に切り離されているように、外にある状態の霊性世界からも切り離されている。この独立した霊性本性は「霊人(Geistmensch)」と呼ばれる。

私たちが物質的な人間身体を研究するとき、その中に身体の外側にある物質界に存在しているものと同質の素材と力を発見するが、霊人にも同じことが当てはまる。霊人の内部では、外なる霊性領域と同質の要素が脈打ち、その素材と力が働いている。人間の皮膚内には生きて知覚する本性が閉じ込められているが、この点でも霊性領域において同様の現象が見られる。霊人を統一された霊性界から切り離している霊基皮膚は、霊人を独立した霊性存在にする。人はその中で世界の霊性内容を直観的に感知するのだ。「霊基皮膚(geistige Haut)」は「霊性外皮(Geisteshülle)、霊気外皮(aurische Hülle)」と呼ばれる。この「霊基皮膚」は、人間の成長度合に応じて持続的に拡張する。人間の個としての霊人(その霊気外皮)は無限に拡大する、ということを念頭においてほしい。

この霊性外皮のなかで霊人は「生きる」。物質的身体が物質的生命力を通して構築されていることと同様に、霊人は霊基の生命力を通して構築される。エーテル体について語るように、霊人のエーテル霊基(Äthergeist)についても語らなければならない。このエーテル霊基は「生命霊基(Lebensgeist)」と呼ばれる。人間の霊性本性も三つに分けられる。すなわち「霊人・生命霊基・霊我」である。

霊性領域を感知する者にとって、人間のこの霊性本性は「霊気」の高次部分(本来の霊性的な部分)として知覚可能な現実である。彼は霊性外皮の内側に生命霊基として存在する霊人を「観る」。そしてこの生命霊基が、霊性的外界からもたらされる霊基養分の受容を通して継続的に拡大するのを「観る」。そしてさらに、この受容によって如何にして霊性外皮の拡張が起こり、その結果霊人がますます大きくなるのかを観る。この拡大が空間的に「観られる」限りにおいては、言うまでもなくそれは現実のひとつの「像」に過ぎない。にもかかわらずこの像の観念の中では、人間の精神は合致した霊性的事実に向けられている。人間における霊性本性と肉体との相違は、後者は限定された大きさであるのに対して、前者は無制限に成長し得る、という点だ。霊基養分から取り出されたものは、永遠の価値を持っている。このようにして、人間の霊気は互いに浸透し合った二つの部分が集まって成立している。一方で人間の身体存在が、他方では霊性が、それぞれ色と形を与えている。

自我は両者を次のような方法で区分する。物質的なものは自らのその特性に身を委ねながら、精神が活発に活動出来るような身体を構築する。他方で自我は自ら霊性に身を委ね、霊性が精神に浸透し自分の内側で活動出来るよう準備する。このようにして精神に対し霊性領域における目標を与えるのだ。精神は、肉体によって物質的なものに包み込まれ、霊人によって霊性界へ羽ばたくための翼を育まれる。


Im Laufe der Kindheitsentwickelung tritt im Leben des Menschen der Augenblick ein, in dem er sich zum erstenmal als ein selbständiges Wesen gegenüber der ganzen übrigen Welt empfindet. Fein empfindenden Menschen ist das ein bedeutsames Erlebnis. Der Dichter Jean Paul erzählt in seiner Lebensbeschreibung:

« Nie vergeß’ ich die noch keinem Menschen erzählte Erscheinung in mir, wo ich bei der Geburt meines Selbstbewußtseins stand, von der ich Ort und Zeit anzugeben weiß. An einem Vormittag stand ich als ein sehr junges Kind unter der Haustür und sah links nach der Holzlege, als auf einmal das innere Gesicht, ich bin ein Ich, wie ein Blitzstrahl vom Himmel auf mich fuhr und seitdem leuchtend stehenblieb: da hatte mein Ich zum erstenmal sich selber gesehen und auf ewig. Täuschungen des Erinnerns sind hier schwerlich denkbar, da kein fremdes Erzählen sich in eine bloß im verhangenen Allerheiligsten des Menschen vorgefallene Begebenheit, deren Neuheit allein so alltäglichen Nebenumständen das Bleiben gegeben, mit Zusätzen mengen konnte. »

– Es ist bekannt, daß kleine Kinder von sich sagen: « Karl ist brav », « Marie will das haben ». Man findet es angemessen, daß sie von sich so wie von andern reden, weil sie sich ihrer selbständigen Wesenheit noch nicht bewußt geworden sind, weil das Bewußtsein vom Selbst noch nicht in ihnen geboren ist. Durch das Selbstbewußtsein bezeichnet sich der Mensch als ein selbständiges, von allem übrigen abgeschlossenes Wesen, als « Ich ». Im « Ich » faßt der Mensch alles zusammen, was er als leibliche und seelische Wesenheit erlebt. Leib und Seele sind die Träger des « Ich »; in ihnen wirkt es. Wie der physische Körper im Gehirn, so hat die Seele im « Ich » ihren Mittelpunkt. Zu Empfindungen wird der Mensch von außen angeregt; Gefühle machen sich geltend als Wirkungen der Außenwelt; der Wille bezieht sich auf die Außenwelt, denn er verwirklicht sich in äußeren Handlungen. Das « Ich » bleibt als die eigentliche Wesenheit des Menschen ganz unsichtbar. Treffend nennt daher Jean Paul das Gewahrwerden des « Ich » eine « bloß im verhangenen Allerheiligsten des Menschen vorgefallene Begebenheit ». Denn mit seinem « Ich » ist der Mensch ganz allein.

– Und dieses « Ich » ist der Mensch selbst. Das berechtigt ihn, dieses « Ich » als seine wahre Wesenheit anzusehen. Er darf deshalb seinen Leib und seine Seele als die « Hüllen » bezeichnen, innerhalb derer er lebt; und er darf sie als leibliche Bedingungen bezeichnen, durch die er wirkt. Im Laufe seiner Entwickelung lernt er diese Werkzeuge immer mehr als Diener seines « Ich » gebrauchen. Das Wörtchen « Ich », wie es z. B. in der deutschen Sprache angewendet wird, ist ein Name, der sich von allen anderen Namen unterscheidet. Wer über die Natur dieses Namens in zutreffender Art nachdenkt, dem eröffnet sich damit zugleich der Zugang zur Erkenntnis der menschlichen Wesenheit im tiefern Sinne. Jeden andern Namen können alle Menschen in der gleichen Art auf das ihm entsprechende Ding anwenden. Den Tisch kann jeder « Tisch », den Stuhl jeder « Stuhl » nennen. Bei dem Namen « Ich » ist dies nicht der Fall. Es kann ihn keiner anwenden zur Bezeichnung eines andern; jeder kann nur sich selbst « Ich » nennen. Niemals kann der Name « Ich » von außen an mein Ohr dringen, wenn er die Bezeichnung für mich ist. Nur von innen heraus, nur durch sich selbst kann die Seele sich als « Ich » bezeichnen. Indem der Mensch also zu sich « Ich » sagt, beginnt in ihm etwas zu sprechen, was mit keiner der Welten etwas zu tun hat, aus denen die bisher genannten « Hüllen » entnommen sind. Das « Ich » wird immer mehr Herrscher über Leib und Seele.

– Auch das kommt in der Aura zum Ausdrucke. Je mehr das Ich Herrscher ist über Leib und Seele, desto gegliederter, mannigfaltiger, farbenreicher ist die Aura. Die Wirkung des Ich auf die Aura kann der « Sehende » schauen. Das « Ich » selbst ist auch ihm unsichtbar: dieses ist wirklich in dem « verhangenen Allerheiligsten des Menschen ». – Aber das Ich nimmt in sich die Strahlen des Lichtes auf, das als ewiges Licht in dem Menschen aufleuchtet. Wie dieser die Erlebnisse des Leibes und der Seele in dem «Ich» zusammenfaßt, so läßt er auch die Gedanken der Wahrheit und Güte in das « Ich » einfließen. Die Sinneserscheinungen offenbaren sich dem « Ich » von der einen, der Geist von der andern Seite. Leib und Seele geben sich dem « Ich » hin, um ihm zu dienen; das « Ich » aber gibt sich dem Geiste hin, daß er es erfülle. Das « Ich » lebt in Leib und Seele; der Geist aber lebt im « Ich ». Und was vom Geiste im Ich ist, das ist ewig. Denn das Ich erhält Wesen und Bedeutung von dem, womit es verbunden ist. Insofern es im physischen Körper lebt, ist es den mineralischen Gesetzen, durch den Ätherleib ist es den Gesetzen der Fortpflanzung und des Wachstums, vermöge der Empfindungs- und Verstandesseele den Gesetzen der seelischen Welt unterworfen; insofern es das Geistige in sich aufnimmt, ist es den Gesetzen des Geistes unterworfen. Was die mineralischen, was die Lebensgesetze bilden, entsteht und vergeht; der Geist aber hat mit Entstehung und Untergang nichts zu tun.

Das Ich lebt in der Seele. Wenn auch die höchste Äußerung des « Ich » der Bewußtseinsseele angehört, so muß man doch sagen, daß dieses « Ich » von da ausstrahlend die ganze Seele erfüllt und durch die Seele seine Wirkung auf den Leib äußert. Und in dem Ich ist der Geist lebendig. Es strahlt der Geist in das Ich und lebt in ihm als in seiner « Hülle », wie das Ich in Leib und Seele als seinen « Hüllen » lebt. Der Geist bildet das Ich von innen nach außen, die mineralische Welt von außen nach innen. Der ein « Ich » bildende und als « Ich » lebende Geist sei « Geistselbst » genannt, weil er als « Ich » oder « Selbst » des Menschen erscheint. Den Unterschied zwischen dem « Geistselbst » und der « Bewußtseinsseele » kann man sich in folgender Art klarmachen. Die Bewußtseinsseele berührt die von jeder Antipathie und Sympathie unabhängige, durch sich selbst bestehende Wahrheit; das Geistselbst trägt in sich dieselbe Wahrheit, aber aufgenommen und umschlossen durch das « Ich »; durch das letztere individualisiert und in die selbständige Wesenheit des Menschen übernommen. Dadurch, daß die ewige Wahrheit so verselbständigt und mit dem « Ich » zu einer Wesenheit verbunden wird, erlangt das « Ich » selbst die Ewigkeit.

Das Geistselbst ist eine Offenbarung der geistigen Welt innerhalb des Ich, wie von der andern Seite her die Sinnesempfindung eine Offenbarung der physischen Welt innerhalb des Ich ist. In dem, was rot, grün, hell, dunkel, hart, weich, warm, kalt ist, erkennt man die Offenbarungen der körperlichen Welt; in dem, was wahr und gut ist, die Offenbarungen der geistigen Welt. In dem gleichen Sinne, wie die Offenbarung des Körperlichen Empfindung heißt, sei die Offenbarung des Geistigen Intuition genannt. Der einfachste Gedanke enthält schon Intuition, denn man kann ihn nicht mit Händen tasten, nicht mit Augen sehen: man muß seine Offenbarung aus dem Geiste durch das Ich empfangen. – Wenn ein unentwickelter und ein entwickelter Mensch eine Pflanze ansehen, so lebt in dem Ich des einen etwas ganz anderes als in dem des zweiten. Und doch sind die Empfindungen beider durch denselben Gegenstand hervorgerufen. Die Verschiedenheit liegt darin, daß der eine sich weit vollkommenere Gedanken über den Gegenstand machen kann als der andere. Offenbarten die Gegenstände sich allein durch die Empfindung, dann könnte es keinen Fortschritt in der geistigen Entwickelung geben. Die Natur empfindet auch der Wilde; die Naturgesetze offenbaren sich erst den von der Intuition befruchteten Gedanken des höher entwickelten Menschen. Die Reize der Außenwelt empfindet auch das Kind als Antrieb des Willens, die Gebote des sittlich Guten gehen ihm aber nur im Laufe der Entwickelung auf, indem es im Geiste leben und dessen Offenbarung verstehen lernt.

Wie ohne das Auge keine Farbenempfindungen da wären, so ohne das höhere Denken des Geistselbst keine Intuitionen. Und so wenig die Empfindung die Pflanze schafft, an der die Farbe erscheint, so wenig schafft die Intuition das Geistige, von welchem sie vielmehr nur Kunde gibt.

Durch die Intuitionen holt sich das Ich des Menschen, das in der Seele auflebt, die Botschaften von oben, von der Geisteswelt, wie es sich durch die Empfindungen die Botschaften aus der physischen Welt holt. Und dadurch macht es die Geisteswelt ebenso zum Eigenleben seiner Seele, wie vermittelst der Sinne die physische Welt. Die Seele, oder das in ihr aufleuchtende Ich, öffnet nach Zwei Seiten hin seine Tore: nach der Seite des Körperlichen und nach derjenigen des Geistigen.

Wie nun die physische Welt dem Ich nur dadurch von sich Kunde geben kann, daß sie aus ihren Stoffen und Kräften einen Körper aufbaut, in dem die bewußte Seele leben kann und innerhalb dessen diese Organe besitzt, um das Körperliche außer sich wahrzunehmen, so baut auch die geistige Welt mit ihren Geistesstoffen und ihren Geisteskräften einen Geistkörper auf, in dem das Ich leben und durch Intuitionen das Geistige wahrnehmen kann. (Es ist einleuchtend, daß die Ausdrücke Geiststoff, Geistkörper dem Wortsinne nach einen Widerspruch enthalten. Sie sollen nur gebraucht werden, um den Gedanken auf dasjenige hinzulenken, was im Geistigen dem physischen Leibe des Menschen entspricht.)

Und ebenso wie innerhalb der physischen Welt der einzelne menschliche Körper als eine abgesonderte Wesenheit aufgebaut wird, so innerhalb der Geisteswelt der Geistkörper. Es gibt in der Geisteswelt für den Menschen ebenso ein Innen und Außen wie in der physischen Welt. Wie der Mensch aus der physischen Umwelt die Stoffe aufnimmt und sie in seinem physischen Leib verarbeitet, so nimmt er aus der geistigen Umwelt das Geistige auf und macht es zu dem Seinigen. Das Geistige ist die ewige Nahrung des Menschen. Und wie der Mensch aus der physischen Welt geboren ist, so wird er aus dem Geiste durch die ewigen Gesetze des Wahren und Guten geboren. Er ist von der außer ihm befindlichen Geisteswelt abgetrennt, wie er von der gesamten physischen Welt als ein selbständiges Wesen abgetrennt ist. Diese selbständige geistige Wesenheit sei « Geistmensch » genannt.

Wenn wir den physischen Menschenkörper untersuchen, finden wir in ihm dieselben Stoffe und Kräfte, die außerhalb desselben in der übrigen physischen Welt vorhanden sind. So ist es auch mit dem Geistmenschen. In ihm pulsieren die Elemente der äußeren Geisteswelt, in ihm sind die Kräfte der übrigen Geisteswelt tätig. Wie in der physischen Haut ein Wesen in sich abgeschlossen wird, das lebend und empfindend ist, so auch in der Geisteswelt. Die geistige Haut, die den Geistmenschen von der einheitlichen Geisteswelt abschließt, ihn innerhalb derselben zu einem selbständigen Geisteswesen macht, das in sich lebt und intuitiv den Geistesinhalt der Welt wahrnimmt, – « geistige Haut » sei Geisteshülle (aurische Hülle) genannt. Nur muß festgehalten werden, daß diese « geistige Haut » sich fortdauernd mit der fortschreitenden menschlichen Entwickelung ausdehnt, so daß die geistige Individualität des Menschen (seine aurische Hülle) einer unbegrenzten Vergrößerung fähig ist.

Innerhalb dieser Geisteshülle lebt der Geistesmensch. Dieser wird durch die geistige Lebenskraft in demselben Sinne auferbaut, wie der physische Leib durch die physische Lebenskraft. In ähnlicher Weise, wie man von einem Ätherleib spricht, muß man daher von einem Äthergeist in bezug auf den Geistesmenschen sprechen. Dieser Äthergeist sei Lebensgeist genannt. – In drei Teile gliedert sich also die geistige Wesenheit des Menschen: in den Geistmenschen, den Lebensgeist und das Geistselbst.

Für den in den geistigen Gebieten « Sehenden » ist diese geistige Wesenheit des Menschen als der höhere – eigentliche geistige – Teil der Aura eine wahrnehmbare Wirklichkeit. Er « schaut » innerhalb der Geisteshülle den Geistesmenschen als Lebensgeist; und « er schaut », wie sich dieser « Lebensgeist » fortwährend durch Aufnahme von Geistesnahrung aus der geistigen Außenwelt vergrößert. Und ferner sieht er, wie durch diese Aufnahme sich die Geisteshülle fortdauernd weitet, wie der Geistmensch immer größer und größer wird. Insofern dieses « Größerwerden » räumlich « geschaut » wird, ist es selbstverständlich nur ein Bild der Wirklichkeit. Dessenungeachtet ist in der Vorstellung dieses Bildes die Menschenseele auf die entsprechende geistige Wirklichkeit hin gerichtet. Es ist der Unterschied der geistigen Wesenheit des Menschen von seiner physischen, daß die letztere eine begrenzte Größe hat, während die erstere unbegrenzt wachsen kann. Was an geistiger Nahrung aufgenommen wird, hat ja einen Ewigkeitswert. Aus zwei sich durchdringenden Teilen setzt sich deshalb die menschliche Aura zusammen. Dem einen gibt Färbung und Form das physische Dasein des Menschen, dem andern sein geistiges. – Das Ich gibt die Trennung zwischen beiden, in der Art, daß sich das Physische in seiner Eigenart hingibt und einen Leib aufbaut, der eine Seele in sich aufleben läßt; und das Ich gibt sich wieder hin und läßt in sich den Geist aufleben, der nun seinerseits die Seele durchdringt und ihr das Ziel gibt in der Geisteswelt. Durch den Leib ist die Seele eingeschlossen im Physischen, durch den Geistesmenschen wachsen ihr die Flügel zur Bewegung in der geistigen Welt.